福島第一原発30キロ圏内の真実

〜福島県南相馬市の大井千加子さん(介護福祉士)が講演〜




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 千葉県自然保護連合、千葉の干潟を守る会、三番瀬を守る会は2017年2月18日、「3・11から6年 津波と原発事故の恐ろしさを語る」と題した講演会を船橋市内でひらきました。講師は南相馬市の大井千加子さん(55)です。大井さんは東日本大震災による大津波と原発事故で悲惨な体験をされました。感動的で、涙なしには聞けない話でした。講演要旨を紹介させていただきます。



講演要旨



福島第一原発30キロ圏内の真実

〜3・11で私が体験したこと、見たこと〜


福島県南相馬市 大井千加子さん(介護福祉士)



*避難生活がつづく

 私は福島県南相馬市の介護老人保健施設「ヨッシーランド」で介護長をしていた。ヨッシーランドも津波に襲われ、38人が犠牲になった。利用者37人、職員1人である。私は九死に一生を得た。
 3・11からもうすぐ6年になる。福島県で避難したひとはみんなそうだと思うが、私も1週間や2週間で自宅にもどれるだろうという思いで避難した。ところが、家族離ればなれの避難生活がまだつづいている。


*大津波が襲来

 ヨッシーランドは海岸から2kmのところにあった。ハザードマップ(災害予測地図)では津波が来ないとされていた。
 ヨッシーランドのグループホームでは、避難訓練を年に何回もおこなった。訓練のなかで消防署のかたに「津波は大丈夫ですか」と聞いたら、「大丈夫です」という答えだった。
 3月11日午後2時46分、大地震が発生した。ものすごく揺れたため、利用者も職員も全員が大きな駐車場に避難した。
 この日はとても寒かった。そのため、ブルーシートや布団などを施設からもちだし、暖をとることに頭がいっぱいになっていた。津波が来ることは念頭になかった。防災無線も聞こえない。  いろいろとやっていくなかで、だれかが「津波は大丈夫だろうか」と言った。そこで、避難しよう、ということになった。利用者さんを車に乗せられるだけ乗せ、近くの専門学校に第1次の避難をはじめた。その最中に津波が来た。
 ヨッシーランドの近くを県道が走っている。県道はヨッシーランドの敷地よりも少し高くなっている。県道の奥には畑がある。そこに逃げることにした。ところがベッドについている車輪が畑に埋まってしまい、私も動けなくなった。そのとき、だれかが叫んだ。「流されるぞ、しがみつけ!」。その言葉を聞いてベッドにしがみついたとき、私は波にたたきつけられた。


*津波が残した悪夢

 津波が去ったあとは悪夢だった。私のまわりには泥に埋まった利用者さんがたくさんいた。生きているひともいた。しかし声がでない。泥を飲んでいるからだ。頭皮が剥(は)がれたひともいる。血まみれになって震えているひともいる。
 そのうちにようやくレスキュー隊が到着した。私が手をのばそうとしたところに、車いすからころがった利用者さんが亡くなっていた。そのひとを起こしてあげたいとと思った。そのとき、レスキュー隊員にきっぱり言われた。「そのひとはもう死んでいる。生きているひとを優先してください!」と。


*悲痛な声が充満

 応急措置をしてくれた近くの病院に私も行った。フロア(床)は泥だらけである。被災者はいろいろなところが変形している。津波のなかに引きこまれて泥を飲んだひとは表情がない。うわごとを言うだけだった。看護師さんが「このひとに声をかけてください!」「声かけて!」と大きな声で言う。声をかけないと死んでしまうので、声をかけつづけた。それでも利用者さんたちはどんどん亡くなっていく。そういう状態だった。
 深夜2時ごろ、私はようやく自宅にもどることができた。家にだれもいなかったので、夫の携帯に電話した。家族が避難した体育館のなかでは、私はもう助からないだろうという話になっていた。私が電話をしたら、「わあー、生きていた、生きていた」という声がまわりから聞こえた。
 12日、遺体安置所となった県立高校の体育館に遺体がつぎつぎと運ばれた。遺体は番号で並べられていた。遺体を見た家族のひとたちは泣きじゃくっている。体育館の中は悲痛な声が充満していた。


*福島第一原発で水素爆発
  〜狂わされた時計〜

 そういうときに原発事故が起きた。3月12日午後3時36分、福島第一原子力発電所の1号機が水素爆発をおこし、建屋が崩壊した。
 午後6時25分、福島第一原発から半径20km圏内に避難指示がでた。受け入れ先に職員が行かない。「行ってください」と私が言っても、行かない職員が増えてくる。
 電話はなかなかつながらない。連絡手段もない。職員を迎えにいこうと思っても、車の燃料がない。
 翌13日、肌を露出しない、帽子をかぶる、マスクをつける、ということで屋内にいた。水がでない。食糧もない。燃料もない。物流が止まっている。そういう状態のなかで交代の職員は来なくなった。連絡もとれなくなった。


*「今すぐ逃げろ!」

 14日の午前11時1分、こんどは福島第一原発の3号機でも水素爆発が起きた。私たちは遺体安置所で「この先どうする」という選択をすることになった。
 そんなとき、警察官たちの会話の内容が聞こえてきた。警察官は他県のひとが多い。「どこさ行く?」「逃げる?」「避難する?」という話だった。
 そのとき、報道は政府の話をこう伝えていた。「ただちに命にかかわることはない」。
 あの状態で避難指示区域が20kmから拡大されないのが不思議だった。私たちは25kmぐらいのところにいた。国際基準では、避難指示の範囲は80kmとのことである。それはあとで知った。20kmのところで爆音や爆風を感じているのに、避難指示区域が拡大されないのは不思議でしようがなかった。
 14日の夜、本部で仮眠をとった。そうしたら息子からこんなメールが届いた。「自衛隊が原発から50km圏外に向かって走っている。今すぐ逃げろ!」。私はこう返事した。「どうしようもないから、まずはみんな助かってね」
 夜明け前、玄関のほうに行ったら、職員が荷物をまとめてテレビの前に立っていた。「私たちは逃げます。歩きたいひとがいたら、歩いてもらったらいいですよ」「車を貸すから、あなたたちも勝手にどうぞ」。職員さんにそう言われた。福祉の現場ではない感じがした。


*再び死を覚悟

 15日の朝6時14分、さらに2号機も爆発し、建屋が損傷した。9時38分には4号機の建屋で火災が発生した。
 菅直人首相(当時)が会見し、「チェルノブイリ事故に次ぐレベル6」と発表した。そして、30km圏内に屋外退避指示がでた。これで物流は止まった。
 翌16日、職員の避難がはじまった。ほんの数人だけ、そこの職員さんが残った。ヨッシーランドからの避難者と施設の利用者と私もそこで過ごしていた。
 そういうなかで、避難者のひとりから「私の薬はないでしょうか」と聞かれた。私は施設の職員に聞いた。「このひとの薬はないですか」。そうしたら、職員からこう言われた。「薬はもう手にはいらない。これからは、ひとりずつここで看取(みと)ることになるでしょう。それが、これからの私たちの仕事ですよ」。こんなことがあっていいのだろうか。私はすごく腹だたしくなった。私は、あの津波から助かった命をこんなことでなくしたくない。「そんなのは絶対に嫌だ!」と思った。でも、私にできることとして、そこにいるひとたちと努めて明るく過ごした。


*「助かった!」

 16日の夜、そこの施設長から「福島市に避難できるかもしれない」と言われた。「いま交渉している」「ヨッシーランドの避難者全員が1カ所の施設に行けるよう調整している」とのことだった。このとき私ははじめて思った。「助かる!」と。
 翌17日、避難先がきまった。福島市の特別養護老人ホーム「なごみの郷」である。これから開設するので30人全員を受けいれられるという。ヨッシーランドからの避難者が13人、施設の入所者が17人、あわせて30人を私がひとりで引率することになった。
 玄関からバスまで15〜16m、放射能を浴びないように体を覆い、ひとりずつバスに乗った。歩けないひとはもちあげてバスに乗せた。
 午後4時、南相馬市から福島市に向かった。距離は60kmである。道路は亀裂が走ったり、地盤沈下したりしている。とても速く走れる状態ではない。それでも体調不良者がなく、「なごみの郷」に着いた。
 到着すると、「なごみの郷」の職員さんたちが笑顔で迎えてくれた。あとで職員さんに聞いたら、「浜通りのひとたちは辛い思いをしてきたから、せめて笑顔で迎えてあげよう」とみんなで決めたそうである。「私たちは助かった。もう死と向きあうことはない」と思った。


*原発周辺の現実

 最近のことをお話ししたい。
 福島第一原発の敷地には汚水タンクがたくさんある。雨が降るとタンクから汚染水が漏れる。それが海に流れる。それらはすべて事後報告である。「海に流れているのは少量」と発表されると、「ウソをつくな!」と言いたくなる。
 双葉町では、国道6号線から入る枝道がすべて封鎖されている。商店の入り口も封鎖されている。
 除染廃棄物を入れた袋が田んぼに大量に積み上げられている。この袋は数年しかもたないといわれている。数年たったらどうするのか。袋を入れ替えるという話もある。
 放射線量のモニタリングポストがあちこちに設置されている。この写真は国道6号線のモニタリングポストである。昨年7月に撮った。1.219μSv/h(1時間あたりのマイクロシーベルト)と表示されている。場所は双葉町である。
 帰還困難区域を通る常磐自動車道のモニタリングポストは、おなじ日に4.1μSv/hと表示されていた。すごい数値である。それが当たり前の日常となっている。
 事故や事件は、いまも事後報告となっている。しかも、発表された報告や情報は地元の情報と一致しない。南相馬市には東電に勤めているひとがたくさんいる。だから、地元ではいろいろな情報を手に入れることができる。
 汚染水が海に流れてもそこで止まる、と安倍首相は言っている。そんなことはだれも信じていない。原子炉から溶け落ちた核燃料はまだ見つかっていない。


*避難解除でも自宅にもどれない

 私の自宅は南相馬市の小高区にある。自宅の近くも、いたるところに除染廃棄物が山のように積まれている。
 小高区の人口は、震災が起きた平成23年3月11日は1万2842人だった。ところが今年2月9日は1132人である。避難指示が解除されたが、まだ1割に満たない。
 南相馬市全体では、避難しているひとが今年2月9日現在でまだ1万3785人もいる。避難先は、市内の仮設住宅や市外・県外の知人・借り上げ住宅である。私の家族も離ればなれで避難生活をつづけている。
 家族全員で暮らせないというのが、いまの私の現実である。自宅の敷地から20mの範囲だけを除染しただけで昨年、避難指示が解除された。しかし、農地や山林はなにもしていない。自宅周辺は安全とはほどとおい状況である。その状態で除染終了の通知が一方的に送られてきた。
 病院や商店などは再開が困難になっている。ニワトリが先か、卵が先か、の状態である。ひとがもどらなければ再開できない。でも、病院や商店などがなければもどることができない。小高区の小学校は4校から1校になることが決まった。
 震災からまもなく6年がたつ。息子世帯にとっては避難先が生活の場となっている。震災の年に小学校に入学した孫は、今年3月に卒業する。小学校が4校から1校になって、中学校もはじまる。しかし、それだけの人数しかいないと、学校行事や部活などに大きな影響がでる。そんなことを考えると、「もどって来い」とは言えない。


*正しい情報がほしい

 これまで国の安全宣言を何百回も聞いた。しかし、すべて納得のいくものではなかった。
 原発事故からかなりあとになってSPEEDI(スピーディ=緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の数値が発表された。そのとき政府は、「混乱を避けるために、すぐにはSPEEDIの数値を発表しなかった」と言った。信じられないことである。その数値がわからなかったため、私たちは数値の高い場所に移動した。そんなひとが山ほどいた。情報は隠さないでほしい。危険なら危険と、きちんと話してほしい。私たちは正しい情報がほしい。


*地域を再生したい

 私は帰宅して生活をつづけたい。地域の再生も考えている。近所は更地と農地と空家がすごく多い。それらを活用したい。人口が激減するなかで、つながる活動をしたい。
 自宅周辺では引っ越しがつづいている。おなじ通りに13軒ぐらいあったが、残ったのは3、4軒になってしまった。
 震災後のあの年、自宅の敷地ではものすごく花が咲いた。花は咲いたが、虫はいなくなった。ほんとうにびっくりするぐらいである。チョウチョは飛ばない。トンボも飛ばない。しかし写真のように、秋はきれいなところである。みなさん、ぜひおいでください。
 私は、自宅の近くにデイサービス(通所介護)の施設をつくることを目標にがんばっている。生かされた命である。応援してくれる多くのひとに「ありがとう」と言える日を生きていこうと思っている。
(文責・千葉県自然保護連合事務局)








津波に襲われ、38人が犠牲になった介護老人保健施設「ヨッシーランド」
=NHKテレビより



国道6号線から入る枝道はすべて封鎖されている=福島県双葉町(大井さん撮影)



除染廃棄物の山がいたるところにある=南相馬市小高区(大井さん撮影)



大井さん宅付近の秋景色=南相馬市小高区(大井さん撮影)
大井千加子さんの話に聞き入る参加者=2017年2月18日、船橋市






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